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世界の戦場から

War 世界各地の紛争地帯で活動している日本人ジャーナリストたちの作品を集めた写真展。過去にDAYS JAPAN誌にも掲載された作品も数多く見受けられた。これだけの数の日本人フォト・ジャーナリストの作品を一度に見る機会も中々無い。

今私たちが報道によって伝えられている事は正しい事なのでしょうか。

イラク、レバノン、パレスチナ、チェチェン、今そこで行われている事が私たちに正しく伝えられているのでしょうか。体制側に偏った報道がされているのではないか。

写真展を通して戦場で生きる人たちの姿を見ると報道に対する疑念は増すばかり。

戦争の犠牲になる事とは、その戦争を一生背負って生きる事。その声も届けてもらいたい。

世界報道写真50周年記念展

半世紀、長い年月のような気がする。

しかし、そこに写し出されている世界は、現在私たちが生きている時代となんら変わる事のない世界が写っていた。報道写真の歴史は、戦争の歴史でもないだろうか。報道写真家(特に戦場のフォトグラファー(Warphotographer)) が活躍しているという事は、世界のどこかで戦争・国際紛争がいつも行われていた事の証。

戦争だけではなく、飢餓や貧困、人種差別と報道のネタには事欠かない。それが今現在も続いている。この先半世紀も続いて行く事だろう。

映像文化が多岐に渡る今の世界においても、写真の持つ力はまだまだ衰えていないだろう。

セバスチャン・サルガドの写真を見た時の衝撃は今でも忘れられない。聖書の世界を再現するかの様な作品の数々に触れ、思わず「美しい」と思った。しかしそこに写し出されていたのは、貧困に苦しむ親子の姿。「美しい」と思った自分の無知さを恥ずかしく感じ、その後の世界観が大きく変わった事を自覚できる瞬間であった。

戦争の悲惨な現場に立ち会っているかの如く、ジェームズ・ナクトウェイの写真に見入る。

彼らの写真は、私たちを知らない世界に誘ってくれる。自分の生きている社会だけが全てでは無い事を教えてくれる。

しかし、彼らフォトグラファーたちは、何故その現場に居たのだろう。

何をもって”決定的瞬間”と言うかは、フォトグラファー個々で違うだろう。しかし彼らは常人とは違う嗅覚を持っているのか、吸い寄せられるようにその現場に立会いシャッターを切っている。

まるで人間の英知を遥かに超える力によって導かれ、その場に立ち会う事を許されたかのように・・・

遊希ひなた 撮影会(at 猿島)

神奈川県・横須賀市の猿島(http://www.sarusima.com/)で、遊希ひなたさんを撮影(Studio Swallowtail)してきました。

遊希ひなたさんとは以前より同撮影会で御一緒してるが、撮影の機会には巡りあっていなかった。ようやく今回初めて撮影する事が出来た。彼女の言動や表情からは年齢が推し量れない女性であるが、その仕草などからは女性らしい雰囲気が垣間見れる不思議な人だ。

Img_2049_2 ”目力”と言うのでしょうか、その表情には非常に人を引き付ける強いものを感じます。ファインダー越しからでも、彼女の瞳に引き込まれそうな錯覚に陥ります。また、今回撮影に御一緒させて方が的確にレフ版を当て、キャッチアイを入れて頂いたので、彼女の魅力的な瞳がよりいっそう引き立ちました。

他の方が撮影している時にレフ版を持つ事があるが的確に光が当たっているのか悩む場面に多々遭遇してしまう。積極的にレフ版を持つ事で勉強していきたい。

御一緒した方の構図のバリエーションの豊富さにも勉強する事が沢山あった。

Img_2071_2 自分の好きな構図があるが、それだけではモデルが違っても変わり映えのしない作品になってしまう。人と違う構図で撮影する事にばかり意識することなく、他の人の構図を盗む事にも励みたい。物まねだけで終わっては仕方がないが、色々なシチュエーションでそれらを上手く組み合わせる事が出来るようにこれも勉強しなければならない。

猿島は好きな撮影場所ではあるが、毎回似たような作品になりがち。まだまだ撮影シーンの応用が出来ていない証拠なのだろう。

世界報道写真展2006

世界報道写真展に行き始めたのは、2001年9月11日後に開催された時からだと記憶している(世界報道写真展2002だったと思う)。会場を周っていると気が重くなり何度も休憩しながら見終え、外の空気が非常に新鮮だった。

あれから毎年、会場を訪れるようになった。

Wpp2006_001_1 大賞に選ばれた写真をはじめ、どの作品も「今の世界」を映し出している。

アメリカ・ニューオリンズのハリケーン被害、インド・カシミール地方の地震被害、イギリスの地下鉄テロ事件、インドネシア・アチェ州の津波被害etc、と何か遠い昔の出来事のように感じるが、全て現在進行形の問題である。

毎日の新しいニュースによって塗り重ねられる記憶のため、全てが解決したように感じてしまう。

今回の作品で目を引いたのは、ダイヤモンドの露天掘りの現場と宝飾店でそのダイヤモンドを購入している人たちの写真が対比して並べられていた作品。いかにも「今の世界」を写しだしている。アンゴラ、シオラレオネ、コンゴ民主共和国、リベリアなどのダイヤモンド原産地はその利権を巡って政情不安に陥っている。別にダイヤモンドの不買運動を起こす気は無いが、原産地の情勢にも少しは興味を持ってもらいたい。「ダイヤモンドの輝きは永遠の輝き」などと言ったテレビCMもあったが、原産地の人たちの苦しみが永遠に続く事ならないようにしなければならない。

ガテマラで一家総出で農作業をする少女(7歳)の写真。農作物を売る国家が得る収入の何100分の一を彼女の家族は得るのだろうか。ダイヤモンドにしても、農作物にしても不当に取引された利益で懐が潤う人間たちがこの世界には沢山いる。

市民を足蹴にする兵隊。軍隊は何を守る為に存在しているのだろうか。そして、ダンボールの棺に入れられ埋葬される少年の写真。彼は暴動の犠牲にあったようだ。その清らかな魂を葬るには、あまりにも粗末な棺に呆然とした。

ココシリ

雄大で美しい大自然ココシリを舞台にチベット・カモシカを守る山岳警備隊と密猟者の壮絶なまでの死闘を描いた本作品。

モンゴル語で「美しい娘」を意味するココシリ。その言葉とは裏腹に猛威を振るう自然。

Bg01_story 密猟者を追って山に入る事ですら命がけ。海抜4700メートルのその大地では、走っただけでも肺血漿になりかねない。薄氷の川をジープで渡り、氷点下の夜をテント1つで過ごす。砂嵐、吹雪と刻一刻と変化する。ジープがガス欠になれば、それは死を意味する。

山岳警備隊は密猟者と戦いながらココシリとも戦う。

マシンガンを使う密猟者たち。それは殺戮以外のなにものでもない。毛皮を剥ぎ取られたチベット・カモシカの大量の死骸には言葉も出ない。

密猟者を追う途中、密猟者に雇われて毛皮の下処理を行う農民の一団を捕まえる。彼らは元々放牧で暮らしていたが、草が無くなり家畜を手放し已む無く今の仕事をしていると語る。そこには環境破壊によって砂漠化が進む中国の現状を示唆しているようにも思える。

山岳警備隊は自費でココシリを守っている。その資金源には、違反者や密猟者からの罰金や、没収したチベット・カモシカの毛皮を密売して得た資金も当てられる。そこに矛盾や葛藤が生まれる。彼らが本当に守ろうとしているものはココシリではなく仲間なのではないか。山岳警備隊の隊員が流砂に飲み込まれる場面では、そんな彼らに対するココシリの怒りを見るような気がする。そして大自然を前にした人間の無力さも。

ココシリ(http://www.eigaseikatu.com/title/15341/)

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