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千尋 撮影会(at 昭和記念公園)

東京都/昭和記念公園で、”千尋”さんを撮影(Studio Swallowtail)してきました。

先日、富士フォトサロン(東京/有楽町 http://www.fujifilm.co.jp/photosalon/index.html)で「2006 美しい風景写真 100人展」を見てきた。その時強く感じたのが、全ての作品に共通して、主題を生かす為の脇役の存在があるとゆうこと。対照的な色を配置した構図を意図的に行う事で主題が生き生きと映し出されている。

この考えをポートレート撮影にも生かせないかと臨んだ今回の撮影。

しかし、師走の昭和記念公園は、木々の葉が落ち公園全体が枯葉色。足元に目を移しても落ちた葉は綺麗に掃き掃除がしてあり、面白みが感じられない。

Img_3921_3 しかし、日差しは柔らかく木々の影を写している。これを生かしたいと立ち位置を何度か移動しながら撮影を行う。

中々思い通りには撮影出来ないものだ。木の影と、千尋さんの影の位置関係なども最初から計算しておかないと撮影に手間取ってしまう。他の撮影者の方もいるので1人で千尋さんを独占するわけにもいかないので適当なところでOKを出さざるを得ないのも辛いところだ。

今回の撮影では、AIサーボAFを使い、歩きながらの撮影を実践してみる事に。

ピントは合っていたが、少し千尋さんに近付きすぎた感じ。膝上辺りからの構図になればもっと良かったと思える写真が何枚もある。

撮影イメージは、”デートの途中”ってつもりであったが、事前に千尋さんにイメージを伝えなかったのも落ち度。しかしそのイメージを知ってか知らずか千尋さんのアドリブのおかげで何とか形になった感じ。

背景や構図、振り向く方向などまだ問題点は沢山あるが暫く使ってみたい撮影方法になりそう。

千尋さんの撮影は半年振りになるが、時々見せるつまらなそうな表情が相変わらず良い。好きなモデルの1人だ。_img_4038_4

個人的には、カメラを向ける度にやたらと笑顔を振りまくモデルより、時として色々な表情を見せてくれるモデルの方が良い。

人生は、奇跡の詩(うた)

Jinsei_1 「ライフ・イズ・ビューティフル」でナチス・ドイツの絶滅収容所をパロディー化したロベルト・ベニーニが、今度は戦時下のイラクに乗り込んだ(撮影自体はイラクでは行われていない模様)

詩人のアッティリオ(ロベルト・ベニーニ)が夢に見る結婚式。夢の中で警官が「毎晩表に車を止めている奴は誰だ!」っと怒鳴り込んでくる。アッティリオを毎晩のように結婚式の夢を見ているようだ。

夢のお相手はヴィットリア(ニコレッタ・ブラスキ)

現実の世界では、ヴィットリアとよりを戻すために日夜奔走している(殆どストーカー的)。常に偶然を装う所などは、「ライフ・イズ・ビューティフル」で、グイド(ロベルト・ベニーニ)が小学校教師のドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)に必要に迫るシーンを思い出させてくれる。

伝記作家であるヴィットリアは、アッティリオの友人で著名なイラク人の詩人・フアド(ジャン・レノ)の伝記を仕上げる為にイラクへ赴く。

そして開戦。

爆撃による負傷を受けたヴィットリアは、イラク国内の病院へ搬送されるが瀕死の重態。フアドから連絡を受けたアッティリオは、国際赤十字に潜り込んで戦時下のイラク/バクダットへ潜入し、ヴィットリアを救うべく危険を顧みず奔走する。

主人公が詩人であるので、「人生は舞台のようだ」とか「太陽を好きなのは彼女を照らしてくれるから」など詩的な表現の台詞が随所にあったように思える。

Jinsei2 自分の気持を上手く伝える事が出来ないから詩人になったとゆうアッティリオではあるが、ヴィットリアを救うべくフアドの親戚の老人を訪ねるシーンでは、イタリア語を理解できない老人に対して、イタリア語で自分の気持を伝え老人もそれを理解する。言語を超越するシーンでもあり感動する。

今イラクで行われている戦争(内戦)も宗教観や言語の違いからもたらされている。人は言葉で理解しあう以上の事が出来るのだと訴えているかのよう。

その宗教観や人生観の違いは、人の人生も左右する。夢や奇跡を信じるアッティリオと現実的なフアドの二人の末路は対照的だった。

病院のベットで意識不明のヴィットリア。その枕元で、イタリア人のアッティリオがイタリア語でアッラーの神に奇跡を願いながら、飛び回るハエたちを大量破壊兵器(ハエ叩き)で叩き落とすのは、ロベルト・ベニーニの強烈な皮肉に思えた。

一つの言葉を捜すために一生を懸ける詩人と、一つの愛の為に一生を懸けるロベルト・ベニーニの姿が重なり合う映画。

http://www.eigaseikatu.com/title/16664/(映画生活:人生は、奇跡の詩(うた))

京都 晩秋から初冬へ

観光客で賑わう紅葉シーズンを外し、落葉を撮影したく12月に京都に行く事を決めた。風景写真系の雑誌やインターネットを利用して撮影ポイントを幾つかピックアップ。調べてゆくうちに、西山浄土宗総本山 光明寺(http://www.komyo-ji.com/)の参道の写真に強く引かれ、光明寺を中心に今回の撮影を行う事に決めた。

12月8日(金)。早朝の新幹線で一路京都へ。

天気予報を見る限り週末は雨模様。京都に到着するもやはり曇り空。

京都駅より嵐山/嵯峨野方面の市バスに乗車して50分程の「嵯峨釈迦堂前」で下車。最初の目的地、奥嵯峨「祇王寺」へ。

_img_3814_1  広くは無い中庭。緑の苔の上に落葉が敷き詰められている。しかし残念ながら葉が落ちきった後といった感じであった。前日から降った雨で落ち葉も濡れてしまい少し重く感じる。

地面の葉の色は、すでに朽ち葉色(赤朽ち葉、黄朽ち葉)になりつつある。紅葉の鮮やかな赤色や黄色も秋を代表する彩りだが、朽ち葉色も秋をイメージする彩り。少し撮影前のイメージとずれてしまったが、良い彩りが撮影できた。

祇王寺の中庭の周りを小道が回っているが、紅葉シーズンでは落ち着いて撮影するのは難しいだろう。人影を入れずに撮影するのも無理だろう。今回は時季をずらし、平日の早い時間(10時くらい)なので人もまばら(2人ほど先に撮影していた方がいた)でゆっくり撮影する事ができた。

昼前には観光客が拝観し始めてきたのを合図に祇王寺を後にした。

嵐山から阪急嵐山線に乗り30分程で、長岡天神駅へ到着。駅前よりバスに乗車し10分程、光明寺に到着。

当初は、光明寺の撮影は翌日(9日/土曜日)の早朝に予定していたが、9日は朝から雨が予想されていた為、8日の撮影に変更した。

_img_3858 今回の撮影旅行を計画した切欠の参道からの眺め。祇王寺同様、落葉の具合が進行し過ぎている感じがする。本来なら綺麗な紅葉のトンネルが見れるそうだ。

近年の光明寺は、9時からしか入山できないらしく、朝日に輝く参道は残念ながら撮影する事が出来ないらしい。これも撮影者のマナーの悪さが関係しているのであれば残念な事だ。

12月9日(土)。一理の望みを掛けて6時に起床。しかし外は未明から降りだした雨。また布団に潜り込む。

少し雨脚が弱くなってきたので、9時頃ホテルをチェックアウトし最後の目的地、京都の洛西、大原野神社へ赴く事に。

長岡天神駅より阪急京都線に乗り、阪急東向日駅へ。駅より阪急バスに乗り換え20分程乗車し、南春日町で下車すると小雨模様の山景色。公共のバスが1時間に2本と交通の便が良くない為か観光客も疎ららしく、紅葉シーズンに来てもゆっくり撮影出来そう。

_img_3891 静寂が支配する境内で断続的に降る雨を避けながら僅かに撮影する事が出来た。山の中にひっそりを佇む大原野神社。紅葉シーズンには参道の景色や石段を彩る落ち葉が綺麗な事だろうと、軒先で雨宿りしながら想像が巡る。

昼前に雨脚が激しくなってきたので退散する事にした。

例年より全国的に紅葉の進みが遅いのを考慮して12月の撮影を計画したが、3~4日程遅かった感じがする。また、終始雨模様とイメージ通りの撮影が存分に出来なかった。

まだまだ場所を撮影しに行っている感じが否めず、その時々の天候にも左右されずに撮影テーマを写真にする道のりは険しそうだ。

061208_151301_2毎日同じ通勤電車で会社と家の往復するのが普段の生活から考えると、初めての街路を進むだけでワクワクする感じがする。

寺院ですれ違う人や撮影している人たちと挨拶や会話を交わす何気ない事に殺伐とした毎日との違いを感じ心地良い。

最後は、光明寺で撮影の邪魔をする子猫です。

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