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田中かおり 撮影会

主催:エフ・スタイル  撮影モデル:田中かおり  撮影場所:渋谷(東京)

Img_7916 一ヶ月半振りのモデル撮影でした。以前は、撮影期間が一ヶ月以上開くと”変な焦り”みたいなものを感じていたのですが、最近は一度の撮影で自分なりに納得出来る撮影が出来るようになって来たのか、それ程焦燥感もないです。

撮影には色々な条件が必要で、モデルの存在感やロケーション、撮影会そのものの雰囲気、主催者の考え方、参加者の考え方等など。全てが揃うのは簡単な事ではないけど少しでも良い条件で撮影出来る事を願うと闇雲に参加する必要もないのではとも思えてきた。

Img_8038 今回の「田中かおり」さんは、第一条件「モデルの存在感」を感じさせる女性ではないかと楽しみにしていました。アップに寄っても動じる事無く、レンズを見詰める視線が素敵な女性でした。モデルを評価する言葉に「目力」なる表現がありますが、この「目力」とは、レンズを射抜くような強い視線と解釈しています。田中かおりさんの場合は、瞳の奥に吸い込まれそうな魅力的な視線が良かったです。ついつい寄った感じの写真が多くなりました。

また、指先の動きも何かしなやかな表情を感じました。特に指示をする事無くとも、軽く曲げてみたり多少ずらしてみたり、彼女が意識的にしているのかどうかは解りませんが、指先まで気に掛けている感じが写真に美しさを加えてくれます。

渋谷のロケーションは、過去に何度か訪れており撮影コースも大体同じになる事が殆どだ。前回渋谷を訪れた時は、そのマンネリ感を払拭すべく、70-200mmレンズを駆使してみたりと色々実験的に撮影をした。

今回また70-200mmを持ち込んでは、同じ撮影をしてしまうのが予想できたので、単焦点50mmを中心に撮影を慣行してきた。50mmと85mm/90mmマクロの3本で撮影をしていると、最近ズームレンズに頼り切っていたのに気がついた。確かに便利で有効なのは解るが、撮影時の楽しみである試行錯誤する行為を犠牲にしていたように思える。

Img_8079単焦点レンズは不便なところもあるが、それを補う自分のアイデアや努力次第では、色々と面白い作品が出来ると思う。

ユニセフ・シンポジウム「取り残される子どもたち」

日時:2007年11月19日(月) 18:30~21:00

会場:よみうりホール(有楽町)

ユニセフ(国際児童基金)シンポジウムに参加してきました。

ユニセフのシンポジウムには、2004年5月に「積み残された子どもたち」と題したシンポジウムに参加して以来2度目となる。

会場には、中高生と思われる生徒から年配の方まで幅広く来場し満席の状態。「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」が国連総会で採択されてから18年目を迎える今年、色々な世代の人が同じ問題について考える良い機会を設けてもらった。

最初に驚いたのが、「児童の権利に関する条約」を日本が承認してから13年しか経っていないとゆうこと。採択当初から承認しているのかと思いきや少し残念な気持になった。最近でこそ、北朝鮮による拉致事件などで、人権侵害問題が公に議論されるが、残念な事に世界的には日本における人権侵害意識はかなり低いらしい。アムネスティ・インターナショナルの評価もあまり良くなかった記憶がある。

未だにアジア各国に対する、売春ツアーが横行していたり、インターネットでの児童ポルノの発信源は以外にも日本がその中核をなしているとゆう話も耳にする。

世界的に問題となってる、児童兵士や児童労働などは流石に日本国内では起きていない。逆にそれが日本国内での問題意識の欠落に繋がっているような気がする。

「子どもの権利条約」によって各国は、児童兵士、児童労働、児童ポルノ、児童買春などに対して法制化して厳しく取り締まる事が求められるが、着実に制度として履行しているかを監視する役目が我々にはある。その監視する立場にある”大人”が問題に対して無関心では話にならない。

子どもにも自信の権利「子どもの権利条約」について認識していてくれなければ意味が無い。その権利がある事を知らなければ行使することが出来ない。しかし日本の教育現場では、なかなか伝える事が出来ていないらしい。

残念な事に”出来ない”のでは無くて、”伝えない”というのが現状だそうだ。学校側としては教育現場を不用意に混乱させたくない気持が働いているとゆう。

シンポジウムの場を通して、子どもたちに伝えて行くのも意義深いが、シンポジウム来場するのは、多少なりとも問題意識がある人達であり、無関心の人はそもそもこのシンポジウムの存在する知らないであろう。

また、世界にはマスコミ報道が未発達であったり、識字率の低い国や地域がまだまだ沢山ある。その国(地域)の人たちを如何に助けてゆくのかも問題だ。そのような国(地域)の子どもたちが、一番被害や搾取にあっている。

グローバル化の潮流は、富める国と貧しい国を生み出した。富める国の中にも、急激な経済発展を遂げた、インドや中国のように国内格差の問題が内紛している。

インドにおいては、18歳以下の人口4億5000万人のうち、小学校に通えるのは25%程度しかおらず、50%は極度に栄養不良な状態の子ども。児童労働においては世界1の数に達している。

グローバル化の恩恵を受けて成長してきた日本や欧米各国は、取り残された国(地域)に対する責任が発生していると思う。

今回のシンポジウムのテーマは、決して子どもに特化したテーマでは無いと思えた。日本には、”大人”と”子ども”を分ける儀式(成人式)があるが、本来は区別するのは変な話で、この世に生を受けた瞬間から一人の人間である。一人の人間の人権として問題を見るべき事だと思えた。

”大人”が嫌がる事は、”子ども”も嫌に決まっている。ましてやそれを力で強要したり搾取する行為は違法以外の何もでもない。

カルラのリスト

監督:マルセル・シュプバッハ

キャスト:カルラ・デル・ポンテ

Blogparts02_3 『戦争犯罪人(戦犯)』とゆう言葉はあまり好きではない。戦勝国が敗戦国に対して戦争犯罪人のレッテルを貼り、国際法廷でその罪を問うが、戦争とは必ずしも戦勝国に正義があるとは限らないからだ。

しかし、ボスニア・ヘルツェコビナ紛争で、大量虐殺の主導的立場にあった、ミロシュビッチ(2006年死亡)やカラジッチ、ムラディッチらの指導者達は国際法廷の場で裁かれるのは当然であろう。

本作『カルラのリスト』は、逃亡中の戦争犯罪人を逮捕/起訴すべく奔走している、旧ユーゴ国際刑事法廷(ICTY)の国際検察官/カルラ・デル・ポンテと彼女のスタッフたちの戦いの記録(ドキュメンタリー)である。

国際刑事法廷の名前は耳にする機会はあったが、実際にどのような活動をしているのかは、一般のメディアでは窺い知る事は難しい。本作品を観る事で多少なりとも垣間見る事が出来た。また、国際社会の裏側も見れた。

Blogparts01 カルラ・デル・ポンテは常に数十人のSPに守られながら行動をする。彼女が追っている戦争犯罪人は、他方から見れば、自国の”元大統領”であり”英雄”である人物なので、そのシンパから命を狙われる可能性も十分にあるのだろう。

そんな危険は状態にありながら、彼女を突き動かす物とは何なのだろう。”スレブレニツァの虐殺”では多くの女性が犠牲になった『民族浄化』なる事件が起こっている。同じ女性として犠牲者の悲痛な叫びを聴き、それがカルラの魂を揺さぶるのではないかと思う。

『犠牲者の母の会』の女性が冒頭、「検察官がカルラで良かった」と言っている裏には、「もし、男性の検察官であったならば、適当な所で政治決着に持ち込まれるのではないか」との不信感の表れではないでしょうか。

その思いを感じるからこそ、カルラは現状を苦々しく思っているのでしょう。

ICTYは国際機関であるが、戦争犯罪人の逮捕/起訴する権利が無く、各国政府の協力に支えられている。戦争犯罪人がセルビア国内に潜伏/匿われているのを知りながら、現セルビア政府は逮捕するのは及び腰。”英雄”を逮捕/起訴する事によって国内情勢が不安定になるのを恐れているのであろう。

カルラへのインタビューを聴いていると、端々には苛立ちや無力感が感じられるのはその為であろう。

Blogparts03

クロアチアに潜伏している戦争犯罪人を逮捕する場面では、国際社会の裏事情が垣間見えた。

ICTYに対して表向きは協力的な態度を取るクロアチアではあるが、裏では非協力。しかしEUに加盟したいクロアチアにとっては、ICTYの評価は大切な判断基準になる。

カルラは逮捕に協力しなければEUに対して批判的な評価をすると、クロアチア政府に脅しを掛ける。裏取引があったとも言われるが、結果として一人の戦争犯罪人をオランダ/ハーグの国際法廷に送り込む事に成功した。

しかし、カルラには時間が無い。カルラの任期は2007年9月14日(12月末まで延期された)。未だに6人の戦争犯罪人が逃亡中であるが、アフガン、イラク戦争に忙しいアメリカやNATOは、この歴史の記憶から忘れ去られようとしている紛争には興味が無いようだ。

世界中で紛争/戦争は絶え間なく続く。メディアの報道は常に現在進行形の戦争を伝える。10数年前の戦争など、新鮮はニュース・ソースでは無いので報道される機会も徐々に減ってしまい、我々の記憶からも消えてしまうだろう。

しかし、過去の戦争の記憶に苦しんでいる人たちも沢山居る。その人たちを救わなければ、”憎しみの連鎖”は何時までも続き、戦争も終わることは無いのだろう。

映画生活(http://www.eigaseikatu.com/title/19392/)

パンズ・ラビリンス

監督:ギレルモ・デル・トロ

キャスト:セルジ・ロペス(ビダル大尉)/イバナ・パケロ(オフェリア)/アリアドナ・ヒル(カルメン)/マリベル・ベルドゥ(メルセデス)

Wallpaper05_1024_2 内戦の終結後もパルチザンによる散発的な争いの続くスペイン/1944年。少女(オフェリア)は母(カルメン)と共に、新しい義父(ビダル大尉)の待つ、山中へ向かう。

過酷な現実に希望を失ったオフェリアは、フェアリーテイル(妖精)に導かれて、ラビリンス(迷宮)の扉を開く。オフェリアは遠い昔に亡くなった、魔法の王国のプリンセス・モアナの生まれ変わり。

再び王国に戻るには、現実世界で”3つの試練”に耐えなければならない。

Wallpaper04_1024 「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリーポッター」がファンタジー映画のメジャーならば、今作「パンズ・ラビリンス」は、日本に於いてはマイナー作品かもしれない。PG-12指定でもあり、あまり話題には上がって来なかった感じもする。

しかしながら、現実の世界(1944年/スペイン)の動乱とファンタジーの世界が密接に絡み合うストーリー展開は、観客を魅了しスクリーンから目が離せない。全く別世界を描く「ロード・・・」や「ハリー・・・」に比べるとリアルな感じを受ける。

スティーブン・キングやピーター・ストラウブの小説に寄って、ダーク・ファンタジーの扉を開いた私からすると、「ロード・・・」は甘過ぎるし、「ハリー・・・」はお子様向け映画に過ぎなかった。

「パンズ・ラビリンス」は、ファンタジーの形態を採っているが、本当に異世界を描いたのだろうか?

過酷で残虐な現実世界で精神のバランスを崩したオフェリアが救いを求めたのが、大好きな”おとぎ話”の世界。魔法の王国もプリンセスの生まれ変わりもオフェリアが抱いた妄想に過ぎないのでは無いかと感じたりもする。

Wallpaper01_1024_2人の心の裏側には、残虐な世界やラビリンスが広がっている。そんな心情を上手く映像化しているようにも思える。

オフェリアを導くパン(神父)。その姿はヤギの頭を持つ異形であり、観客が感じていた事をオフェリアが発する「あなたを信じていいの?」

外見で人を判断してしまう、人間のダーク(残虐)部分を具現化したシーンに思える。

映画の手法的には、エンディングを予感させるシーンを冒頭に挿入したり、壁や柱、大木をカメラが横切ると次のシーンへ展開するなど、然程目新しい感じは無かったがスクリーンから目が離せない映像美がある。

Wallpaper03_1024 映像を見ている事で、色々とインスパイアされる作品などは沢山無いが「パンズ・ラビリンス」を見終えると自分の中に「新しい引き出し」が増えた感じがする。

普段写真撮影を趣味としているが、この引き出しが何かの役に立ってくれる日がくるような気がしてならない。

感情や心を非常に豊かにさせてくれる上質の作品に出会えた感じが今も残る。

悲しいくも残酷な感じもするラストシーン。でも逆にホッとする感じも残る不思議な終わり方。この世の中で一番大切な物とは何かを問い掛けている作品だと思う。

エンドロールを見ながら、鳥肌が立つ感覚を始めて味わった。

映画生活(http://www.eigaseikatu.com/title/17661/)

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